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【私小説】午後三時の観覧車~村上春樹風官能的ラブストーリー

午後三時ちょうど、僕たちは観覧車に乗った。

観覧車の中の男女とワイングラス
夕暮れの観覧車に揺れる、ふたりの気持ち。

太陽はやや西に傾きかけていて、鉄製の巨大な輪郭が陽射しに溶けかけていた。どこにでもある郊外の遊園地だった。回転木馬がぎいぎいと軋み、風船を握った子どもが地面に寝転んで泣いていた。アイスクリームの屋台ではバニラが溶け始め、チュロスの香ばしい匂いが風に混じって漂っていた。

彼女は何かを言いかけて、やめた。
それがとても彼女らしいと思った。言葉を途中で失くしてしまう才能のようなものが、彼女にはあった。

「今日が最後でも、いい?」
彼女がそう言ったのは、ゴンドラが一番上に差しかかる直前だった。
僕は頷いた。声にすると、何かが壊れてしまいそうだった。

僕たちはそれぞれ家庭を持っていた。名前のついた子どもたちがいて、歯ブラシは二本ずつ洗面所のコップに立っていた。冷蔵庫には誰かが書いたメモが貼られていて、車にはチャイルドシートが設置されていた。洗濯物はほとんど乾いていて、夕方にはスーパーで鶏肉を買わなければならなかった。

けれどこの観覧車の中だけは、そうした現実が一枚の絵葉書みたいに遠くにあった。
ゆっくりと回転するゴンドラの中、僕たちは言葉の代わりに沈黙を分け合った。彼女の指が僕の指に少しだけ触れた。最初のタッチは偶然だった。でも二度目は、明確な意志だった。

「本当にさ、あの時ああしてなければ、ってことあるよね」
彼女がそう言って、窓の外を見つめた。遊園地の下を、父親に手を引かれた小さな女の子が歩いていた。

「うん、あるよ」
と僕は答えた。だけど実のところ、僕たちはあの時、ああしてしまうしかなかったのだ。

ゴンドラが地上に戻ってくるまで、僕たちは数センチだけ指先を重ね続けた。それがすべてだった。
唇も肌も交わさなかった。なのに僕のなかでは、彼女の香りと体温がいつまでも残っていた。喉の奥に小さな魚の骨のように引っかかっていた。

観覧車を降りた時、彼女は小さく笑って言った。
「じゃあ、ここで。あなた、そろそろ戻らなきゃね」
「君も」
「うん」

そして僕たちは、何ごともなかったように左右に別れた。

遊園地の入り口には、今日の日付とイベントの看板が出ていた。
カラフルな風船がふわふわと揺れていた。僕はポケットの中で指を握り、風の中に残っていた彼女の残像を、そっと飲み込んだ。


後編:再会と再出発

観覧車の記憶は、秋になっても色褪せなかった。
ときどき夢に出てきた。静かな沈黙、触れそうで触れない指先、遠くから聞こえるチュロスの香りのような音楽。

観覧車とワイングラスのイメージ
沈黙の中に残る赤ワインの余韻。

数週間後、すべてが壊れた。
妻は僕のスマホを見た。「どうして隠そうとしなかったの?」と彼女は言った。
「たぶん、終わってほしかったんだと思う」

子どもは妻についていった。僕はマンションの2階に引っ越した。
ソファはベージュ。観葉植物をひとつ置いた。夜になるとジョニ・ミッチェルがラジオから流れた。

それからちょうど一年後、僕はまた同じ遊園地にいた。

「来ると思った」
背後から声がした。彼女だった。
「あなた、リズムで生きてる人だから」
「そんなふうに見える?」
「うん、たぶんあなたは毎朝同じ角度で歯を磨くタイプ」

午後三時。僕たちは、また観覧車に乗った。

「私、離婚した」
「僕も」
「知ってた。噂になってた」

「私、毎晩ワイン飲んでたの」
「ひとりで?」
「うん。最初のグラスは“あなたの味”。でも2杯目からは“私の言い訳”」
「僕は、2杯目が一番好きかもしれない」

ゴンドラが一番上に到達したとき、彼女が僕の肩にもたれかかった。

「あなたはまだ私のこと、好き?」
「たぶんずっと、好きなまま生きていくんだと思う」

今度は、別れ道ではなかった。
僕たちは肩を並べて観覧車を降りた。そして、手をつないだ。
まるで、最初からそうすることが決まっていたみたいに。

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